平飼いの卵 つまんでご卵

つまんでご卵とは

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開業までの経緯

開業当時。長女と長男ののちの遊び場となる鶏舎を見せる

 五年生のとき作文に「養鶏家になりたい」と書いた少年がいました。
 それからちょうど30年後、長年の夢がかなって彼は養鶏場・「緑の農園」を拓(ひら)きました。
 平成元年のことです。少年は、ひどいおっさんになっていました。(社長紹介欄参照)

 この農場から生み出される卵がこれ。有名な「つまんでご卵(らん)」であります。
 しかし、いくらなりたかったとはいえ、一介のサラリーマンが養鶏家に転進するには、それだけのきっかけが必要です。
 私の場合、それは病気でした。
 健康な時なら二の足を踏んだであろう新規就農を、会社を辞めざるをえない、という状況が逆に後押しをしてくれたのです。
 怪我の功名というのか、損して得取れというのか、私にとってはありがたい結果になったようです。
 就農できただけでなく、日本一といってもよい自然卵「つまんでご卵」を作ることができたのだから。

 私が自分で生産するのは卵と鶏肉だけです。
 しかし今では緑の農園直属の販売所「にぎやかな春」に、あらゆる自然食品をおくまでになりました。
 短期間にこれだけ安全な食べ物をそろえられたのも、実は病気のおかげなのです。
  私がこの仕事を始めたのは、金儲けのためではありません(もちろん生活費程度は稼ぎ出す必要はありましたが)。
 では、なぜか。なぜ30数年住みなれた東京を離れて、九州の片すみで鶏を飼い始めなければならなかったのか。以下にその理由を述べます。  

  • 子供のころから養鶏家になりたかったこと。
  • 病気(腎不全)になってサラリーマンを止めざるを得なかったこと。
  • 仕事で全国の養鶏場を回ってみて、買うに足る卵がなかった(安全な卵があるにはあるのだけれど、実際問題としてスーパーでそれを選び出すのは困難)こと。
  • 30年前と比べてすっかりごみごみしてしまった東京がいやになってしまったこと。
  • 子供たちが私の体質を受け継いでいる可能性が高いこと。そのために、なるべく「良いもの」だけを食べさせたいと思ったこと(詳しくは後述)。
  • 私にできる食料生産は、卵(養鶏)しかなかったこと。

 とまあ、このようなものでしたが、少し説明が要るかもしれません。ことに食べ物と病気の関係について。  

食べ物と病気に関する一考察

 ある日の朝日新聞に、こんな記事が出ていました。
 長崎で被爆した学者(記事が出た時点では、ある大学の医学部教授)が日常悩まされているいろいろな後遺症にひとつに、血尿がありました。疲れたりすると、とたんに小便が真っ赤になるとのこと。この方が20年前にネパールの病院に10年間赴任していたのですが、その間は血尿はめったに出なかったのに、日本に帰国したら仕事そのものはむしろ楽なのに、再び血尿が始まったのだそうです。これは食べ物のせいではないかと疑った奥さんが、無農薬野菜や無添加の食品を買って食べさせたところ、血尿はうそのように収まりました。しかし、地方になど出張したとたんに小便は真っ赤になってしまうのだそうです。たとえ微量でも、農薬や添加物が体に入ることは、やはり良くない、というのがこの方の結論です。(この記事はその後単行本「食料・何が起きているか《朝日新聞社》」に収録されています。

   この記事を私なりに要約すると、「腎臓の機能はどうも140パーセント程度はあるらしい。だいぶ余裕があるということだ。ということは、多少おかしな化学物質を摂取しても、その『余裕』の部分が吸収してしまい、たとえば腎機能の低下など、表面に現象として現れることはないのだろう。だが、たとえばこの人のように、腎臓の機能が落ちてしまい、ぎりぎりのところで生活している人が、化学的な食品添加物や残留農薬などの、人間にとっての『異物』を体内に取り込んだとたん、腎臓へのダメージが『血尿』という形で目に見えてしまうのではないか」ということになります。
 私は決意しました。子供たちには、農薬や添加物など、おかしな物を決して食べさせてはならないと。

 子供たちには私の血が流れています。当然私の体質―――自分の体を自分の免疫機能が攻撃してしまう免疫疾患さえも―――を受け継いでいる可能性も高いのではないか。子供に同じ病気にかからせてしまっては、どう考えても親の責任です。そうなってしまっては、どれほど臍(ほぞ)を噛んでも追いつかないでしょう。

 私は、妻の実家に近い福岡市のはずれの糸島半島の一角に農地を求め、かねてからの憧れであった自然卵養鶏を始めることにしました。平成1年、40歳の9月です。
 幸い私には養鶏に対する知識がありました(経歴の項を参照)。近代的な養鶏場はもちろんのこと、種鶏場、原種鶏場孵化場などの関連施設の仕事もしましたし、さらに25年前には、当時の東京にあった新潟出身の代議士の経営する「国際家畜研究所」という大きな種鶏場に遊びに行っていたことから、いま私がやっている平飼いの原型である飼育方法も見てきています。これは、私の年代にしては珍しい経験といえるでしょう。

 ともあれ、私の養鶏実践の地、『緑の農園』は、このような動機を持った一級身障者によって(無謀にも)、わずか200羽からスタートしたのです。ともすれば横になりたがる体ですが、えさをやり卵を採るという最低限の仕事は、嫌でもやらなければなりません。そのうち、あれほどきつかった仕事が苦にならなくなってきました。200羽の鶏の世話に、体が馴れてきたのです。

 卵の評判は、相変わらずすこぶるよく、400羽に増やさねばならなくなりました。またきつい思いをしましたが、いつしか体が慣れました。こうして、卵が足りなくなるたびに鶏を増やし、増えた労働量に体が馴れる、というサイクルが繰り返されました。
 そして今、敷地いっぱいに5000羽を、また近接の新農場に2000羽分の、合わせて7000羽を飼うまでに行きついたわけです(妻とパートさんと私の3人で始めた会社ですが、今では30人近い従業員がいます)。

 私が今あるのも鶏のおかげです。鶏が、一級身障者の私の体を、曲がりなりにも動くようにしてくれたのです。
 でも、卵が足りません。スーパーには必要量の半分しかもって行けませんし、宅急便で頼まれるお客さんは3週間もお待たせしているのが現状です。
 こうなったら一刻も早く、ある程度の規模の農場を作るしかありません。順調に行けば、数年後には今の何倍もの「つまんでご卵」が生み出されていることでしょう。

 ああ、なんと楽しみなことでしょう。

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